マナー違反に頭を抱えた、ある農園経営者の転換点
山梨県で、外国人観光客を受け入れるファームステイを営む、ある農園経営者がいます。外国人客の受け入れを始めたばかりの頃、この経営者は、思いがけないトラブルに、何度も頭を抱えることになりました。
団体客を案内するバスガイドから、実際の人数を少なく伝えられ、契約した人数よりも多くの客が押し寄せてきたこともありました。
また、来園者が、収穫体験用の袋とは別に、こっそり持ち込んだ袋に果物を詰め込み、そのまま園外に持ち出そうとする場面も、たびたび見られました。
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マナー違反やルール違反が絶えず、受け入れの現場は、常に緊張した空気に包まれていたといいます。
この経営者が最終的に選んだのは、来る人数を減らしてでも、事前にルールをきちんと学んでくれた客だけを受け入れるという、大きな方針転換でした。
団体客であれば、旅行会社に予約が成立した時点で、守ってほしい事項をまとめた文書を送り、参加者全員に共有してもらう。個人客に対しても、同じように文書を直接送付する。
特に、宿泊を伴い、滞在時間が長くなるファームステイでは、事前に審査をした上で、日本でのお風呂の入り方や、布団の干し方といった、細かい生活習慣まで、徹底的に学んでもらうようにしたといいます。
「トラブルが起きるより、人数が減っても、質の良いお客さんが来る方がいい」。この経営者の言葉には、宿泊と体験を組み合わせた施設だからこそ抱える、独自の重みが込められています。
単なる日帰りの観光農園であれば、トラブルが起きても、その日だけの関係で済みます。しかし、宿泊まで伴う農家民宿では、マナーを守らない客と、一晩を通して、同じ屋根の下で過ごさなければなりません。
日帰りの体験施設以上に、受け入れる前の準備が、経営そのものを左右してしまうのです。
宿泊と農業体験、この二つを組み合わせた施設には、単独の宿泊施設や、日帰りの観光農園にはない、独自の難しさがあります。
その難しさに、実際にどう向き合えばいいのかを、具体的な準備とともに整理します。
なぜ農家民宿+農業体験は、対応が複雑になりやすいのか
単独の宿泊施設であれば、宿泊客を迎えることだけに、時間と人手を集中させることができます。同じように、日帰りの観光農園であれば、収穫体験の対応だけに専念することができます。
しかし、農家民宿と農業体験を組み合わせた施設では、この二つの仕事を、同じ人手で、同時にこなさなければなりません。
多くの場合、家族経営という、限られた人数の中で、日中は畑や田んぼで農作業を行い、そのまま体験の案内をし、夕方になれば、宿泊客の食事の準備や、布団の用意をするという、一日を通した忙しさが続きます。
さらに厄介なのが、時間の重なりです。農業体験は、天候や作物の状態に左右されるため、決まった時間通りに進まないことがあります。
体験が長引いてしまえば、そのまま、宿泊客のチェックインや、夕食の準備の時間と重なってしまうことも珍しくありません。
単独の宿泊施設であれば、チェックインの時間に集中して対応できますが、農家民宿では、畑での作業を終えたばかりの姿で、宿泊客を迎えなければならない場面も出てきます。
冒頭で紹介した農園経営者が、事前のルール共有を徹底したように、限られた人手の中で、体験と宿泊の両方を、無理なく回していくためには、行き当たりばったりの対応ではなく、あらかじめ、しっかりとした準備と、仕組みづくりをしておくことが欠かせません。
宿泊と体験、両方を整えるための準備
①スケジュールを組み立てる
農家民宿と農業体験を、無理なく両立させるために、まず取り組みたいのが、一日の流れを、あらかじめ具体的に設計しておくことです。
体験の時間、食事の準備の時間、チェックインの対応時間、それぞれが重ならないよう、一日のスケジュールを、時間帯ごとに書き出してみます。
例えば、午前中に収穫体験を行い、昼過ぎには一区切りをつけて、午後の早い時間に、宿泊客のチェックイン対応に集中できる時間をつくっておく、というように、あらかじめ余裕を持たせた組み立てにしておくことが大切です。
天候によって、農作業や体験の時間がずれ込むことも、想定しておく必要があります。雨の日の予備プランや、体験が長引いた場合に、チェックインの時間を柔軟に調整できる仕組みを、あらかじめ考えておくことで、当日になって慌てることが少なくなります。
すべてを完璧な時間割にする必要はありません。ある程度の余白を持たせたスケジュールを組んでおくことこそが、限られた人手で、体験と宿泊の両方を、無理なく回していくための、現実的な工夫になります。
②体験内容を多言語で伝える
農業体験そのものは、言葉が完全にわからなくても、楽しんでもらいやすい体験です。しかし、安全に関わる注意事項や、作業の手順については、正確に伝えておく必要があります。
例えば、農具の使い方や、畑の中で気をつけてほしい場所、収穫していい作物と、してはいけない作物の見分け方など、伝えるべき内容は、意外と多くあります。
これらをすべて、言葉だけで説明しようとすると、外国人の参加者には、なかなか伝わりません。
効果的なのが、実際にやって見せる、実演を交えた説明です。言葉で説明する前に、まず自分の手で、収穫のやり方や、道具の使い方を見せることで、言葉が完全にわからなくても、参加者は、動作をまねながら理解することができます。
さらに、よく使う指示や、注意事項をまとめた、簡単な絵入りのカードを用意しておくことも役立ちます。
「ここは危ないので気をつけてください」「この作物は、まだ収穫できません」といった内容を、イラストと一緒に示しておくことで、繰り返し使える、便利な案内になります。
冒頭で紹介した農園経営者が、事前に文書でルールを共有していたように、体験が始まる前の段階で、伝えるべき内容を整理し、多言語で準備しておくことが、当日の混乱を防ぐ、大切な備えになります。
③宿泊部分の基本対応を整える
体験の準備が整ったら、次に考えたいのが、宿泊部分の対応です。農家民宿には、一般的なホテルや旅館とは違う、独特の距離の近さがあります。
多くの農家民宿は、経営者の家族が実際に暮らしている住居の一部を、宿泊客に開放する形で運営されています。
そのため、宿泊客は、廊下や、共有のリビングなど、家族の生活空間と、近い場所で過ごすことになります。
この距離の近さこそが、農家民宿ならではの魅力である一方、外国人宿泊客にとっては、勝手がわからず、戸惑う原因にもなり得ます。
例えば、家族が普段使っている部屋には、勝手に入らないでほしいこと、共有スペースを使う時間帯に、ある程度の目安があることなど、暮らしの中にあるルールを、あらかじめ簡単に伝えておくことが大切です。
また、和室での過ごし方、布団の上げ下げのタイミングなど、洋室に慣れた宿泊客にとって、わかりにくい部分についても、簡潔な説明を用意しておきます。
大がかりな設備を整える必要はありません。家族の暮らしにお邪魔させてもらっているという感覚を、宿泊客にも心地よく持ってもらえるよう、最低限の生活ルールを、優しい言葉で伝えておくことが、宿泊部分における、基本の対応になります。
④食事を通じて、体験と宿泊をつなげる
農家民宿と農業体験を組み合わせた施設ならではの、大きな強みとなるのが、食事です。日中の体験で収穫した野菜を、その日の夕食に使うことで、体験と宿泊が、一つの物語としてつながっていきます。
自分の手で収穫した野菜が、夕食の食卓に並ぶという体験は、単独の宿泊施設や、日帰りの観光農園では、なかなか味わえない、特別な魅力です。畑で汗を流した時間が、そのまま、夜の食事という形で、実を結んでいく。
この一連の流れそのものが、外国人旅行者にとって、忘れられない思い出になります。
このつながりを、より意識してもらうためには、夕食の場面で、「今日、皆さんが収穫してくれた野菜を使っています」と、一言添えるだけでも、大きな効果があります。
簡単な英語のメモを添えておいたり、料理を運ぶ時に、身振りを交えて伝えたりするだけでも、宿泊客は、その日の体験を、改めて実感することができます。
体験と宿泊を、それぞれ別々の出来事として提供するのではなく、食事という場面を通じて、一つのストーリーとしてつなげていくこと。
これが、農家民宿と農業体験を組み合わせた施設だからこそ、実現できる、大きな価値になります。
家族経営だからこそ気をつけたいこと
農家民宿と農業体験を組み合わせた施設の多くは、家族経営という、限られた人手で運営されています。だからこそ、無理を重ねてしまうと、経営そのものが、長く続けられなくなってしまう危険があります。
日中は農作業をこなし、体験の案内をし、夕方には宿泊客の対応をする。この一連の流れを、毎日、休みなく続けていくことは、家族にとって、大きな負担になります。
冒頭で紹介した農園経営者が、受け入れる人数を減らす決断をしたように、無理に多くのお客さんを受け入れようとするのではなく、自分たちの体力や、人手に見合った規模で、対応を続けていくことが大切です。
受け入れ人数を制限すること、体験の内容を、実施可能な範囲に絞ること、これらは、決して後ろ向きな選択ではありません。
無理をして受け入れた結果、対応が行き届かず、宿泊客に不満を持たれてしまうよりも、身の丈に合った規模で、丁寧な対応を続けていく方が、長い目で見て、施設の評判を守ることにつながります。
家族経営という強みを、疲弊による負担に変えてしまわないよう、自分たちのペースを守りながら、続けていく姿勢を、大切にしてください。
あの転換点が、今も問いかけていること
山梨県の農園経営者は、団体客の人数をごまかされたり、果物を無断で持ち出されそうになったりする中で、量より質を選ぶという、大きな決断をしました。
人数を減らしてでも、事前にルールを学んでくれる客だけを受け入れる。この判断が、荒れていた受け入れの現場を、少しずつ落ち着かせていきました。
この経営者が本当に守りたかったのは、収穫できる果物の数や、その日の売り上げではなかったはずです。
畑での時間、家族との距離の近さ、そして、収穫した野菜がその日の食卓に並ぶという、暮らしそのものの豊かさ。トラブルに振り回されるままでは、こうした本来の価値までが、すり減ってしまいます。
スケジュールを整え、体験を多言語で伝え、宿泊の基本を整え、食事で体験と宿泊をつなげる。
今回紹介した一つひとつの準備は、この経営者がたどり着いた答えと、同じ方向を向いています。すべての客に応えようとするのではなく、受け入れられる範囲を見極め、その中で、丁寧な体験を届けること。
農家民宿と農業体験という組み合わせが持つ、かけがえのない価値を、無理なく、長く届け続けていくために。あの転換点は、これから始める人にも、同じ問いを投げかけています。


