ある温泉旅館の女将が、大浴場の掃除に向かった時のことでした。脱衣所の入り口で、外国から来た男性のお客さんが、水着に着替えようとしているところに出くわしました。
女将は慌てて声をかけましたが、お客さんはきょとんとした顔をしていました。悪気があったわけではなく、そもそも裸で湯船に入るという習慣自体を、知らなかったのです。
温泉は、日本に古くから伝わる、大切な文化の一つです。体を芯から温め、日々の疲れを癒やす場所として、多くの日本人に親しまれてきました。
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しかし、この温泉という文化には、日本人にとっては当たり前でも、海外から来た旅行者にとっては、まったく馴染みのない習慣がたくさん含まれています。
体を洗ってから湯船に入ること、湯船の中でタオルを使わないこと、タトゥーに関する独自の考え方、こうした一つひとつのルールは、外国人旅行者にとって、事前に知る機会がほとんどありません。
ホテルの客室のように、一人ひとりが個別の空間で過ごすわけではなく、他のお客さんと同じ場所を共有する温泉だからこそ、ちょっとした行き違いが、思わぬトラブルに発展してしまうこともあります。
だからといって、外国人のお客さんを受け入れることをためらう必要はありません。
温泉旅館だからこそ直面しやすい、独自の課題を知り、それをどう伝えていくかを考えることで、文化の違いを超えて、誰もが気持ちよく過ごせる場所をつくることができます。
なぜ温泉旅館は他の宿泊施設より難しい課題を抱えやすいのか
普通のホテルであれば、お客さん一人ひとりに、鍵のかかった個室が用意されています。
部屋の中でどのように過ごすかは、基本的にそのお客さん自身の自由であり、他のお客さんと直接顔を合わせる場面は、それほど多くありません。
しかし、温泉旅館の大浴場は、まったく事情が違います。見ず知らずの人たちが、同じ湯船に浸かり、同じ脱衣所を使い、同じ洗い場で体を洗います。
プライバシーが守られた個室とは違い、他のお客さんの存在をすぐそばに感じながら過ごす、共有の空間です。
だからこそ、一人のお客さんの行動が、その場にいる他のすべてのお客さんに影響を与えてしまいます。
体を洗わずに湯船に入る人が一人いるだけで、周りにいる日本人のお客さんは、不快な気持ちになってしまうかもしれません。
反対に、そうしたお客さんが咎められる様子を見た他の外国人旅行者が、萎縮してしまうこともあります。
さらに厄介なのは、こうした温泉のルールの多くが、明確な看板や注意書きだけでは伝えきれない、感覚的な部分を含んでいることです。
「体を洗ってから入る」という一文を英語に訳して貼り出しても、なぜそうする必要があるのか、どの程度きれいに洗えば良いのかといった、細かいニュアンスまでは伝わりません。
「郷に入っては郷に従え」という考え方は、日本人同士であれば自然と共有されている感覚かもしれません。
しかし、温泉という文化そのものに触れたことがない外国人旅行者にとっては、そもそも「従うべき郷(ルール)」の中身自体が、まったくの未知数なのです。
だからこそ、温泉旅館には、他の宿泊施設以上に、丁寧な説明と、根気強い工夫が求められます。
温泉旅館がインバウンド対応で直面する独自の課題5つ
①体を洗ってから湯船に入るという習慣が伝わらない
日本では、温泉に入る前に、必ず体を洗ってから湯船に入るという決まりがあります。これは、みんなで同じお湯を使うからこそ、清潔な状態を保つための、大切な習慣です。
しかし、海外の多くの国では、湯船やプールにそのまま入ることが一般的で、体を洗ってから入るという発想自体が、そもそも存在しません。
ある旅館では、体を洗わずにそのまま湯船に入ってきた外国人のお客さんに対して、周りにいた日本人のお客さんから、困った様子の視線が向けられることがありました。
お客さん本人には、悪気はまったくありません。ただ、そういう決まりがあることを、知らなかっただけなのです。
こうしたすれ違いを防ぐためには、脱衣所や洗い場の入り口に、絵を使った案内を置くことが効果的です。
文字だけの説明よりも、体を洗っている様子を描いた絵の方が、言葉が通じなくても、直感的に伝わりやすくなります。
また、フロントでお部屋の説明をする時に、一言「お風呂に入る前には、体を洗ってからお湯につかってくださいね」と、笑顔で伝えておくだけでも、大きな違いが生まれます。
②タトゥーのあるお客さんへの対応
日本の温泉施設の多くは、体に入れ墨のある人の入浴を断る決まりを設けています。これは、入れ墨がある人を、特定のグループに関わる人と結びつけて考える文化が、日本には根強く残っているためです。
しかし、海外では、入れ墨はもっと身近なもので、おしゃれの一つとして入れている人も少なくありません。
日本の旅館で入浴を断られた海外のお客さんが、理由を理解できず、驚いたり、傷ついたりしてしまうことがあります。
この課題には、はっきりとした正解があるわけではありません。ただ、対応の仕方はいくつか考えられます。
例えば、小さな入れ墨であれば、専用のシールで隠すことを条件に入浴を許可する旅館も増えてきています。
また、他のお客さんと時間を分けて、貸し切りで温泉を利用できる仕組みを用意している旅館もあります。
大切なのは、断る場合であっても、理由をきちんと伝えることです。
ただ「入れません」とだけ伝えるのではなく、「日本の温泉では、こうした決まりがあるため」と、背景まで添えて説明することで、お客さんの受け止め方は大きく変わります。
③水着や下着を着けたまま入ろうとする
日本の温泉では、湯船に入る時、何も身につけない状態で入ることが基本のマナーです。しかし、この習慣を知らない外国人旅行者は、水着や下着を着けたまま、湯船に入ろうとしてしまうことがあります。
海外では、温泉やスパのような場所であっても、水着を着けて利用するのが一般的です。
そのため、多くの外国人旅行者にとって、裸で他人と同じ湯船に入るという発想自体が、想像しづらいものになっています。
中には、恥ずかしさから、タオルを体に巻いたまま湯船に入ろうとするお客さんもいます。
こうした行動は、決してマナー違反をしようという気持ちから来ているわけではありません。単純に、日本の温泉が、裸で入ることを前提にした文化だと知らないだけなのです。
この課題への対応としては、予約の段階や、チェックインの時に、あらかじめ伝えておくことが効果的です。
「日本の温泉では、水着を着けずに入るのが習わしです」と、事前に一言添えておくだけで、当日の戸惑いを大きく減らすことができます。
また、脱衣所に、服を脱いだ状態のイラストを掲示しておくことも、言葉に頼らずに伝える工夫の一つになります。
④混浴や男女別のルールが伝わらない
日本の温泉施設の多くは、男女別に浴室が分かれています。しかし、中には、混浴と呼ばれる、男女が同じ浴室を利用できる温泉も残っています。
この二つの違いが、外国人旅行者にはうまく伝わらず、思わぬ行き違いが起きることがあります。
例えば、暖簾の色や、書かれている文字によって、男湯と女湯が分けられていることがよくあります。
しかし、日本語の文字を読めない旅行者にとっては、どちらがどちらの入り口なのか、見分けがつきません。中には、間違えて反対側の脱衣所に入ってしまい、気まずい思いをするお客さんもいます。
また、混浴の温泉を訪れた旅行者の中には、そもそも混浴という仕組み自体を知らず、突然のことに戸惑ってしまう人もいます。
反対に、混浴だと思い込んで訪れたら、実際には男女別だった、という勘違いが起こることもあります。
こうした行き違いを防ぐためには、入り口の暖簾や案内板に、色分けだけでなく、男性と女性を表す、誰にでもわかりやすい絵を添えておくことが役立ちます。
また、混浴の温泉であれば、その旨をあらかじめ、予約サイトやチェックインの案内で、はっきりと伝えておくことが大切です。何も知らされないまま当日を迎えることが、一番大きな戸惑いにつながってしまいます。
⑤タオルの使い方をめぐる誤解
日本の温泉には、タオルの使い方についても、細かい決まりがあります。体を洗う時に使う小さめのタオルは、湯船の中に持ち込まないことや、頭に巻いたまま湯船に入らないことなどが、マナーとして広く知られています。
しかし、こうした細かいルールは、海外から来た旅行者にとって、想像もつかないものです。
ある旅館では、外国人のお客さんが、体を拭くためのタオルを、そのまま湯船の中で洗うようにすすいでいる場面を、スタッフが見かけたことがありました。
お客さんにとっては、タオルを清潔に保つための、ごく自然な行動だったのかもしれません。しかし、日本の温泉のマナーでは、これは避けるべき行動とされています。
同じように、髪の長いお客さんが、髪をタオルで包んだまま、そのまま湯船に入ってしまうこともあります。
日本人であれば、髪をまとめてから湯船に入るという習慣を、自然と身につけていますが、そうした習慣がない国から来たお客さんには、伝わらないことがあります。
こうした細かいマナーを伝えるには、脱衣所や浴室の入り口に、タオルの扱い方を示した簡単な絵を掲示しておくことが効果的です。
「タオルは湯船に入れない」「髪はまとめてから入る」といった、短い言葉と絵を組み合わせることで、細かいニュアンスも伝わりやすくなります。
ルールを「伝える」ための工夫
ここまで紹介してきた5つの課題に共通しているのは、どれも「知らなかった」ことが原因で起きているという点です。
お客さんに悪気があったわけではなく、そもそも日本の温泉文化に触れる機会がなかっただけなのです。だからこそ、旅館の側から、丁寧に伝えていく工夫が欠かせません。
まず心がけたいのは、ルールを一方的な禁止事項として伝えないことです。
「これはしないでください」とだけ伝えると、お客さんは、なぜそう言われているのかがわからず、納得できないまま従うことになってしまいます。
反対に、「みんなが同じお湯を気持ちよく使うために、こうしています」というように、理由まで添えて伝えることで、お客さんは自分から進んでルールを守ろうという気持ちになりやすくなります。
具体的な伝え方としては、いくつかの工夫があります。一つは、多言語での案内表示です。
英語だけでなく、来館するお客さんの多い国の言葉も用意しておくと、より多くの人に伝わりやすくなります。
もう一つは、チェックインの時に、スタッフが直接、簡単な言葉で一言添えることです。案内板を読み飛ばしてしまうお客さんも、フロントで直接声をかけられると、より意識してもらいやすくなります。
そして、絵やイラストを使った説明も、大きな効果があります。
体を洗っている様子、タオルの使い方、男湯と女湯の見分け方、こうした内容は、言葉よりも絵の方が、直感的に伝わることがよくあります。
大切なのは、一度案内を用意して終わりにしないことです。実際にお客さんを迎える中で、うまく伝わらなかった場面があれば、その都度、案内の内容を見直していく。
そうした積み重ねが、少しずつ、行き違いの少ない温泉旅館をつくっていきます。
文化の違いを超えて、誰もが気持ちよく過ごせる温泉をつくる
温泉は、日本に古くから伝わる、かけがえのない文化です。体を洗ってから入ること、タオルの使い方、男女の分け方、こうした一つひとつの習慣には、長い時間をかけて積み重ねられてきた、大切な意味があります。
しかし、その意味は、外国から来た旅行者にとって、最初から理解できるものではありません。
体を洗う習慣がないこと、水着を着けて入る文化があること、入れ墨に対する考え方が違うこと、こうした背景の違いを知らないまま温泉を訪れれば、戸惑ってしまうのは当然のことです。
だからこそ、旅館の側から、理由も添えて丁寧に伝えていくことが、何よりも大切になります。
禁止するだけではなく、なぜそうしているのかを伝えること。それが、文化の違いを超えて、誰もが気持ちよく過ごせる温泉をつくる、確かな一歩になります。
温泉という日本ならではの文化を、恥ずかしがることなく、誇りを持って伝えていく。その姿勢こそが、これからのインバウンド対応において、温泉旅館に求められている、一番大切な心構えなのです。


